さのひこうじょう
■ 佐野飛行場
第2次世界大戦中に本市域に作られた陸軍明野飛行学校佐野分校のこと。1941(昭和16)年、激しくなる戦局の推移に伴い、陸軍は佐野飛行場建設のため、広大な田畑、溜池、宅地用地などの強制買収、神社、墓地、民家の強制移転を始めました。工事は1942(昭和17)年に始まり、長さ1,500メートル幅60メートルの滑走路、格納庫、兵舎などが作られました。建設にあたっては、地元や近隣の小・中学生も勤労奉仕に出たといいます。飛行場建設にあてられた土地は、佐野町、日根野村、長滝村、南中通村の4町村にまたがり、総面積約300ヘクタール。周辺の溜池の親池であった四ツ池も埋め立てられ、その代わりとして築造にかかったのが現在の稲倉池です。佐野飛行場はあまり役に立たないまま終戦を迎えましたが、戦後再び開拓用地として解放されました。戦後の混乱期に被災者が争って耕作するなどしていたために、土地の整理は複雑で困難をきわめましたが、1950(昭和25)年にはそれも終わり、現在の街が作られはじめました。末広公園や市民総合体育館は、ほぼこの飛行場の滑走路があったところに作られています。
(出典:『泉佐野何でも百科』 泉佐野市役所 1994年 102ページ)