「茅渟」「血沼」と当てられている文字は異なっていますが、『古事記』と『日本書紀』にその名が見られます。垂仁天皇が五十瓊敷命を派遣して、当時「茅渟」の地名で呼ばれていたこの和泉の地に池を作らせたという記述です。現在、「茅渟」の名を持った溜池は存在せず、本市に実在したかどうかも確定できませんが、「道ノ池」「布池」が「茅渟池」として想定されています。茅渟池は河内の狭山池、泉北の高石池と並び称されており、大和朝廷の支配が古くから浸透し、開発が進んでいた様子がうかがえます。
(出典:『泉佐野何でも百科』 泉佐野市役所 1994年 148ページ)
参照→
茅渟,
溜池,
布池,
道ノ池