室町期、和泉国日根郡にあった村です。1431年(永享3)年9月28日付の『十二谷下池契約状』に初めてその名がみられ、池の水4分の1を支配する旨が書かれています。ついで1441年(嘉吉元)年6月の『十二谷下池築堤祭文』にも名があがっており、またこの契約確認の儀式において祭文を読んだのは檀波羅蜜寺の僧、宜照房であるとも記されています。当時、寺と関連する村落があったことがこのことからうかがわれます。 (出典:『泉佐野何でも百科』 泉佐野市役所 1994年 147ページ)