泉佐野市立図書館
いずみさのなんでも百科
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おおさかなつのじん

■ 大阪夏の陣

豊臣秀頼が再建した方広寺の釣鐘の銘文をきっかけに起こった大坂冬の陣につづき、1615(元和元)年4月末から5月上旬にかけて行われた徳川軍と豊臣軍の最後の合戦。冬の陣では大坂城の外壕(そとぼり)を埋めることで和睦しましたが、処遇に不満を持つ豊臣方の武将と浪人は戦闘の準備を進めていました。こうした動きに対して、4月24日京都に着いた家康が、秀頼に3ヵ条の要求を突き付けたことがきっかけになって、両軍が進軍を開始しました。 徳川方紀州藩主浅野長晟の軍は北上して佐野まで進出しましたが、作戦上安松、樫井まで退き本陣を泉南市信達大苗代(しんだちおのしろ)(王子坂、稲荷山)におきました。4月29日早朝大野治房の本隊を後方に置いたまま先駆けした豊臣方の武将塙団右衛門(ばんだんえもん)と岡部大学(おかべだいがく)の一隊が浅野軍に突っ込み、昼下がりまで安松や樫井の町中、川原で激しい戦闘が行われました。戦闘は徳川方の圧勝で、塙団右衛門、淡輪重政、坂田庄三郎など名だたる武将が首を取られ、徳川方の武将亀田高綱、上田宗箇(古)らが戦功を上げました。この戦闘の勝利に士気をあげた徳川軍は5月に入って各地で勝利し、5月8日豊臣家はついに滅亡しました。大坂夏の陣の戦闘は、古来亀田高綱の覚書や難波戦記にくわしいことは知られていますが、戦闘の舞台となった地元長滝の古文書(『長滝古記』)などによってもかなり知ることができます。特に地元の住民が書いただけに合戦の当時、人々は山野に逃げ隠れて迷惑し、方々で家を焼かれて難儀したと記されています。
(出典:『泉佐野何でも百科』  泉佐野市役所  1994年  32ページ)

参照→塙団右衛門淡輪重政樫井古戦場