泉佐野市立図書館
いずみさのなんでも百科
お探しの項目の50音のところでクリックするとその音で始まる項目の一覧ページになります。索引を飛ばして本文を読みたい場合はここでクリックしてください。
図書館トップ >> 郷土・行政メニュー >> いずみさのなんでも百科
めしのけ

■ 食野家

江戸時代に佐野を本拠地にして大富豪となった廻船業者の一族。本家は幼名佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は吉左衛門を名乗りました。『食野家系譜』などの資料によると、食野家は楠木氏の子孫で室町時代中頃にはすでに佐野に住んでいたようで大饗(おおあえ)氏を名乗っていましたが、初代正久のときに饗の郷をのぞいて食を名乗り、武士を捨て廻船業に乗り出したとあります。食の姓はいつしか 通りがいい食野に変わっていったようです。食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する17世紀後半から大いに発展します。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンのほしか(干鰯)などを運びました。このような廻船業や大名貸しなどで巨財をきずき、大豪商となりました。江戸時代中期の1761(宝暦11)年には鴻池、三井、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け、後期の1806(文化3)年には三井とともに本家が3万石、分家が1万石の買米を命じられるほどでした。大名貸しでは岸和田藩はもちろん、全国の大名に資金を用立てました。食野家の当時の発展ぶりは「加賀の銭屋か和泉のメシか」といわれるほどで、佐野くどきにも数々のエピソードが唄いこまれています。特に紀州公との親交は深く、参勤交代の往復に、紀州公は必ず食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌に「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがあ る」と唄われました。また食野の当主は代々佐太郎を名前としていますが、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来1,000人をとりあえずヒツに残っていた冷や飯でまかなったことから佐太郎は冷や飯の代名詞ともなりました。「佐太郎を三度いただく居候」や「差太郎は茶金の上に腰を掛け」など多くの川柳にうたわれています。これほどの富を蓄えた食野家でしたが、幕末には廻船業がふるわなくなり、明治時代の廃藩置県の時には、大名への莫大な貸金がほとんど返金されず一気に没落してしまいました。屋敷跡は第一小学校に松の木と井戸枠が残され、いろは四十八蔵と呼ばれた食野家の倉庫群も海岸筋にいく棟か残されています。
(出典:『泉佐野何でも百科』  泉佐野市役所  1994年  214ページ)

参照→廻船業岸和田藩食野家の松いろは四十八蔵食野春日出新田別荘食野家釣鐘